大紀元社説シリーズ『九評』(共産党についての九つの論評)
【その三】中国共産党の暴政を評する
      暴政と言えば、中国人は秦始皇の苛政と焚書坑儒を連想する。秦始皇の「天下の資産が尽きるまで政治のために」《漢書・食貨志》という暴虐は集中的に4つの方面に現れる:苛斂誅求な租税取り立て;人民の財力を功名心の赴くままに濫用;近隣も連座させる過酷な法律と刑罰、;思想統制と焚書坑儒があげられる。秦朝が中国を統治した時代およそ1千万人口があったのに対して、2百万人の労働者を強制的に徴用した。秦始皇はさらに過酷な法律と刑罰を思想の領域に広げ、はばかりなく思想の自由を束縛して、かつて政治を非難した儒学者を千人あまり殺害した。

      「虎狼の秦」と比較して、共産党の暴虐は勝るとも劣らない。よく知られているように、共産党の哲学は闘争の哲学だ。共産党の統治も、内外の「階級闘争」、「路線闘争」、「思想闘争」で作り上げたものだ。毛沢東は「秦始皇など取るに足らない。彼は460人の儒学者を殺し、私達は4万6千人の儒学者を殺した。人は私達を独裁統治だと、秦始皇のようだとののしるが、それも認める。残念ながら、あなた方は言い足りない、私達に言わせればそれどころではない」と率直に言った。

      共産党統治下の中国の苦難に満ちた55年を少し振り返ってみよう。中国共産党が政権を奪い取った後に、いかにして政府の構造を利用し、階級闘争の理論で階級を絶滅させたのか、また、どのように暴力革命の理論で恐怖の統治を実行したのか。「人を殺」し、「心を殺す」ことで、共産党以外のすべての信仰を弾圧して、自らを美化し、共産党は、中国で「神をつくる」運動の幕を開けた。共産党の階級闘争と暴力革命の理論によって、反体制の社会階級と異分子を粛清し、それと同時に暴力と欺瞞で中国人民を、専制支配下の従順な民にした。

一、 土地改革 -- 「地主階級消滅」

      建国してわずか3ヶ月、共産党は全国一斉に土地改革を展開して、「耕す者に土地を与える」のスローガンをかかげ、耕作地を持たない農民に地主との闘争をあおり、手段を選ばず、放縦に任せ、道義性などは無視した。同時に土地改革路線の中で明確に「地主階級消滅」を謳い、農村で階級区別を行い、全国に身分(階級制度)を設け、2千万人に「地主、富農、反(革命的)分子、悪人」のレッテルをつけ、彼らを社会的に差別し、弾圧し、公民権さえない「賤民」とした。それと同時に、土地改革の仕組みを辺境地域と少数民族にも深く浸透させ、共産党の党組織も迅速に拡大し、郷には党委員会があり、村には支部を設けるまでに発展した。党支部は党の意図を下達する。彼らは階級闘争の第一線で突き進み、農民と地主の闘争を引き起こして、10万人近くの地主の命を奪った。更にある地区では地主一家を全滅させ、女子供でさえ容赦なかった。

      この時期、共産党は全国の農村で「毛主席が人民を救う神だ」「共産党しか中国を救うことはできない」と宣伝しはじめた。土地改革による不労所得で農民に実利をもたらし、多くの貧農が共産党に恩を感じた。そのため、共産党は人民のためにあると認めた人も多くなった。

      土地を得た農民にとって、「耕す者が土地を得る」状況は長く続かなかった。2年のうちに、共産党は農民に互助組、初級合作社、高級合作社、人民公社などなどを無理に押しつけた。「纏足の女性」を槍玉に挙げ、歩みの遅い人々を批判するスローガンを展開し、農民を社会主義に駆り立てた。全国で食糧、綿、油の販売を統制し、全国の主要な農業製品を市場流通から排斥した。更に居住登録制度を設け、農民が町に行って働き居住することを禁止した。農村戸籍の人は国家の米穀食料販売店に行って食糧を買うことができず、子供も町の学校へ行くことができない。農民の子女は農民になるしかない。それから、中国3億6千万の農村戸籍所持者は2級の公民となった。

      改革の年代に至って、“一部分の人がまず豊かになった”にもかかわらず、人民公社から家庭単位で請け負う制度に変わり、収入も増え、社会地位も相対的に改善された最初の五年間を除いて、9億人の農民は農工産品の価格傾斜に圧迫され、再び貧困に陥った。都市と農村の収入格差が急激に拡大し、貧富の差が大きくなり、農村でも新たな地主や富農が現れた。新華社発表の資料でも、 1997年以来「食糧の主な生産区と多数の農民の収入が持続的に横ばいか減っている」と表明している。つまり農民の農業所得は増加するどころか減少している。都市と農村住民の所得格差は、20世紀の80年代中期の1.8:1から3.1:1まで拡大した。

二、 商工業改造 ? 資産階級消滅

      もう1つの消滅させられた階級は都市と農村の民間資産階級だ。商工業改革で共産党は公言した:資産階級と労働階級は本質的に不一致だ。1つは搾取階級、1つは搾取される階級である。資産階級の搾取は生まれつきのものであり、死んでも変らず、消滅させることはできても、改造することはできない。この前提で、資本家と商人に対する改造は更に重くなり「殺人」と「心を殺す」二つの方法が併用された。その原則は、従う者は守り立て逆らう者は滅ぼす。資産を上納しそして共産党を支持すると言えば、人民内部の矛盾とみなす。もしあなたが不平や反感を持つことがあるならば、反革命者として弾圧される対象になる。商工業改造の血まみれの闘争の中、資本家、商人はすべて彼らの資産を上納した。屈辱に耐えられないで自殺した人も多数いる。当時の上海市市長陳毅はかつて毎日「今日はどれだけのパラシュート兵がいるか?」と尋ねていたという。つまりどれだけの資本家が飛び降り自殺したかとの意味だ。このように、共産党は中国で一気に私有制を取り消した。

      土地改革と商工業の改造と同時に、共産党は反革命者の弾圧、思想改造を始めた。高崗(こうこう)・饒漱石(じょうそうせき)などの党に反対するグループを粛清し、また、胡風(こふう)の反革命グループを打倒した。三反、五反、反革命分子の粛清など全国で大規模な人の改造を始めた。 改造運動のたびに共産党は、党委員会、総支部、支部など関連するすべての政府機構を利用した。 3人が一部隊になって、田舎まで深く入り込んだ。あらゆるところに浸透し、すべてのことに手を伸ばしていった。このような戦争時代に組み込まれた党支部組織の流れを汲む統治ネットワークは、その後の政治運動で主要な役割を果たしてきた。

三、 民間宗教組織取締りと宗教弾圧

      中国共産党は建国後、宗教に対する暴虐な弾圧と民間宗教組織に対する全面的な取締りを行った。1950年各地の政府に指示を出し、全面的に民間宗教組織を取り締まることを指示した。封建的な民間宗教組織は国民党のスパイ、反革命分子、地主および富農にコントロールされているとした。この全国の郷・鎮まで波及する運動の中で、政府は認定した階級を総動員し、民間宗教組織に打撃を与えた。政府はすべての「迷信」組織、たとえばキリスト教、カトリック教、道教(特に一貫道)、佛教などを解散させた。これらの教会、佛堂、分派は政府に登録して過ちを悔い改める約束をしなければならなかった。登録せず、それが露見すると厳重な懲罰が与えられた。政府は51年、民間信仰を続けるものに対して死刑あるいは無期懲役を言い渡すとした。

      その運動で神を信じ、善に向い、法を守る普通の人々を対象に弾圧した。統計によると、合計でおよそ三百万人の信徒、民間人が捕らえられて殺された。都市と田舎で、全世帯が取り調べに遭い、農民が供物を奉げるかまどの神までも破壊された。殺人と同時に更に共産党のイデオロギーが唯一合法的なイデオロギーであること、共産主義が唯一合法的な信仰であることを確立した。それからいわゆる「国を愛する」信者が現れた。「国を愛する」信者になれば国家の憲法による保護を受けることができる。実際は、民衆は何教を信じるかに関係なく、基準は一つだけである。つまり、全て党の指揮に従って行動し、共産党がどんな教会や寺院よりも上位にあるのを承認しなければならない。あなたがキリスト教を信じるなら、共産党はキリストの神だ。あなたが佛教を信じるなら、共産党は佛教の教祖の教祖だ。回教なら、共産党はアラーのアラーだ。活佛といっても、共産党の認可がなければ活佛になれない。つまり、個人は党に従い言うべきことを言い、行動をしなければならない。信徒は各自の信仰を唱えながら、党の意図を守る。そうしなければ、弾圧の対象になるからだ。

      2万あまりのキリスト教徒による、中国22省207都市の56万人の民間キリスト信者の家庭訪問によってわかったように、その信者の約13万人が監視されていることが確認できた。 1957年より前に、一万一千人余りの信徒が殺され、大量の信徒が不法に逮捕され、あるいは、罰金を取られることが余儀なくされた。これで共産党が中国で地主階級、資産階級を消滅させ、都市と農村で神を信じ、法律を守る人民を迫害し、共産党という一つの邪教が天下統一の基礎を建てたのである。

四、 反右派運動 ━全国規模の洗脳で手下にする

      1956年ハンガリーの学者たちにより結成されたPetofiCircleがソ連の兵隊に虐殺され、 「ハンガリー」事件と言われ、毛沢東は今後の戒めとした。1957年、中国で「百花斉放、百家争鳴」をスローガンに中国の学者と大衆に「共産党の整風(綱紀粛正)を助けよう」と呼びかけた。その意図は彼らから「党に反対する者」を引き出すことであった。それは毛沢東の1957年初に各省の党委員会書記への手紙の中でも整風を言いつつ、「蛇を穴から引き出す」という意図を伝えた。

      その時、人々が自由に発言させるために作られたスローガンがある。「弱点につけこまない、打撃を加えない、帽子(レッテル)をかぶせない、後から追求しない」。結局、一度の反右派闘争で55万名の「右派分子」を確定した。27万人が公職を失った。23万が「中右分子」と「反党反社会主義者」と決められた。ある人は毛沢東の策略を整理して四か条にした。それは、つまり、1)蛇を穴から引きだし、2)罪状をでっち上げ、不意打ちを加え、決め付ける、3)表向きには善意の批判により更正を助けると言いつつ、実は非情にも打撃を与え、4)自己批判を迫り、限りなく大げさに取り上げる。

      これだけの数の右派と反党分子を30年も寒冷貧困な辺境地区に流罪させた「反動的な言論」とは一体何だろう?当時、頻繁に批判された右派の「三つの反動的な理論」は、羅隆基(らりゅうき)、章伯鈞(しょうはくきん)と儲安平(ちょあんへい)による数回の講演会発言から構成されたものである。彼らの意見と提案を詳細に見ると、簡単に言えば、1つの共産党と民主諸党派の党員で構成される委員会を作り上げ、三反、五反、反革命分子粛清の仕事の中の間違いを検討するとの事だ(羅)。国務院に対して、政協、人民代表大会などに態度を表明させ、政策の形成過程にこの人たちを加えることを提案した(章)。党外人も見解、自尊心と国家に対する責任感がある。全国範囲で、あらゆる部門、科、グループにおいて党員だけを責任者にするようなことをしない。細かいことでも党員の顔色で決まるようなこととなる(儲)。この何人かの人はすべて明確に共産党に従う事を表明して、持つ意見もすべて魯迅の述べた「旦那さま、あなたの長衣は汚くなっています、脱いでちょっと洗って下さい」 の範囲を超えていない。

      「右派」だといわれた人々は打倒共産党など考えておらず、ただ批判して、提案しただけなのだが、これだけで数十万人が人身の自由を失い数百万の家庭に苦難をもたらした。更に行われたのは「党に心を預ける」、白旗を抜く(社会主義で白というのは資産階級のたとえであり、資本主義のやり方であり、当時の言い方として“赤旗を挿し、白旗を抜く”があった)、新三反、田舎での強制労働および前回免れた人たちに右派の烙印を押すことであった。誰かが当部門のリーダー、特に党委員会書記に意見があると、その人が党に反対だということとなる。その結末として軽い者は絶えず批判され、重い者は労働矯正あるいは全家族が農村に送られることとなる。この人たちおよび彼らの子女は大学、軍隊に入る権利を奪われ、県政府のある町で仕事を探すことも許されない。それから彼らは労働保険、公費医療を失い、彼らは農民の行列に入り、2等公民の中の賤民になった。

      こうして、一部の学者は日和見的な人となり、権力になびく2重人格になった。彼らは常に「赤い太陽」に追随して、共産党の「御用学者」となり、中共の言われるがままであった。他の学者は、孤高を保ち、政治からは距離を置いた。 国家に対して強い責任感を伝統的に抱いていた中国の知識人たちは、それ以来沈黙を続けている。

五、 大躍進 ━ 鹿を指して馬と為し、以って其の忠を試す

      反右派運動の後、中国は事実を恐れるようになった。嘘に耳を傾け、出鱈目な話をでっち上げ、デマと偽りの行為で真実を避け、覆い隠していた。大躍進は、全国範囲の集団うその大爆発をであった。全国民は、共産党という邪霊の導きに従い、馬鹿げたことばかりをした。嘘をつく者もだまされる者も、自らを欺き人をも騙すようになった。この嘘と愚行の中で、共産党の暴虐な邪気は全国民の精神にまで入り込んだ。人々が大声で歌うのは「私は玉皇(ぎょくこう)、私は竜王、三山五岳に道を開けと命じ、私は来たのだ」とかいう躍進歌であり、実施しているのは「一畝当たりの収穫量を万斤(5000キログラム)、鋼鉄生産量は倍増、十年でイギリスを超えて、十五年でアメリカを超える」というでたらめな計画で轟々烈烈として、数年の間覚めることがなかった。それによって深刻な大飢饉となり、餓死者が野に溢れ人民は生きた心地がなかった。

      1959年の廬山(ろざん)会議で、 会議参加者は誰もが彭徳懐(ほくとくかい)の意見が正しかったことを知っていた。誰もが毛沢東の大躍進は荒唐無稽で、独断専行だと知っていた。 しかし毛沢東を支持するかどうかは、「忠」と「奸」を分ける生と死の境界線である。昔、趙高(ちょうこう)は是非を転倒して、鹿を指して馬だと言った。しかし、それは決して馬と鹿のことを知らないからではなかった。世論を左右させ、徒党を組んで個人の利益を求めるのが目的だった。 人を盲目的に従わせ、論争する勇気すら与えなかった。 最後、彭徳懐は、本心と裏腹に自らを粛清する決議に署名した。 同様に、文化大革命後期に、ケ小平は、退職を迫る政府の決定に意義を唱えることはしないと約束をせざるを得なかった。

      人類社会は経験によって世界を認識し、視野を広げるのに対し、共産党は人々から歴史の経験と教訓を知らしめない。更に政府の情報封鎖により、人々は是非を弁別する能力が日に日に低くなってきた。次世代人が先任者の運動における「歌燕市の気概」という理念、理想と経験に対して完全に無知で、欠片の一部分に頼って歴史を理解してそして新しい事を判断していくことしかできない。自分では正確だと思い込み、実は大きな間違いを作る。共産党の愚民政策はこのような方式で行なわれてきたのだ。

六、 文化大革命 ━邪霊が取り付き、天地が逆転する

      文化大革命は共産党という邪霊が全中国に取り付いて起した大事件であった。1966年から、中国大地をもう一つの暴虐の嵐が襲い掛かった。赤色恐怖が荒れ狂い、狂った龍、轡の外れた馬のように荒れ狂い、山は震え、河は凍えた。作家の秦牧はかつて、中国の文化大革命を次のように絶望的に表現している。

      「これは本当に前例のない大災害だ。数百万人が巻き添えになり、数百万人は恨みを持ったまま死に、多くの家庭はばらばらに崩れ、少年たちは悪辣な浮浪者になり、書籍は焼かれ、名所旧跡は破壊され、先賢の墓は暴かれ、革命の名の下で罪悪が行なわれていた」。

      控え目にみても、文化大革命中の虐殺被害者は773万人に達している。

      人々は、文化大革命の暴力と殺戮は、無政府状態の下で発生したものだという錯覚を持っている。殺人者はすべて「紅衛兵」、「反対派」だと思っている。しかし中国で出版された数千冊の県誌などの資料によって、文化大革命中、最も死者の多い時期は、紅衛兵が反逆し、政府は機能しなかった1966年末でもなく、反対派の力による闘争が盛んな1967年でもない。それは「革命委員会」が全国に作り上げられ、毛澤東が統制力を振るった1968年であった。有名な大虐殺事件で、闇雲な暴力、血腥い虐殺犯人の大部分が、軍隊の将兵、武装民兵と党員幹部だった。

      下に示す例で、これらの暴行が、決して紅衛兵や反対派による一時的な過激行為ではなく、共産党と地方政権の既定の方策によるものだと分かるだろう。しかし、文化大革命時代の指導者と権力機構が直接、暴政を指揮し参与したことは、ずっと隠されてきた。

      1966年8月、北京紅衛兵は「送還」を名目に運動を展開、悪人、右派、お金持ち、反革命とみなされた者を、強制的に北京から農村へ追い払った。政府の不完全な統計でも、当時33695戸の北京市民は家財を差し押さえられ、85196人は本籍所在地に戻された。このやり方は急速に全国の大都市に広がり、40万人の都市住民が農村へと送還された。地主出身の共産党幹部の親でさえ免れることがなかった。

      実際に、このような行動は、中国共産党が文化大革命以前に、すでに手配していたものだ。当時の北京市長の彭真(ほうしん)は、北京住民の出身は「ガラス板や水晶のように純粋」であるべきで、出自のよくない人をすぐさま北京から追放しようとしていた。1966年5月、毛澤東は「首都を守れ」と指示を出した。叶剣英(きょうけんえい)、楊成武(ようせいぶ)と謝富治(しゃふじ)をはじめとする首都工作組が創立された。この工作組の任務の1つは警察を通して大規模で「出自のよくない」住民を送還することであった。 当時、紅衛兵が2%の北京市民の家を荒らし、家財を差し押さえて、住民を送還しても、政府に阻止されていないどころか、なぜ警察の支持を得たのかはこれでよく分かる。当時の公安委員会委員長である謝富治は幹部と警官に紅衛兵を阻止せずに、むしろ、紅衛兵の「参謀」となって、情報を提供するようにと求めた。紅衛兵も当局にただ利用されただけで、1966年末までには、これらの紅衛兵も共産党に捨てられて、多くの者は、反革命主義者と宣言され、監獄に入れられた。その他、従った都会の青年たちも田舎に送られ労働と思想改造をさせられた。当時、紅衛兵の組織の主宰者も共産党の指導者による「面倒見のいい指導」の下で育てられ、彼らの訓令も当時の国務院秘書長に修正された後に発表されたものであった。 北京で地主、お金持ち出身者が農村に送還されたのに続き、農村でも新たにそれらの人々に対する迫害を始めた。1966年8月26日に北京市大興県警察署の会議で、公安委員会委員長・謝富治の演説が伝達された。その中に、警官が紅衛兵の「参謀」となり、黒五類(地主、資産階級、反革命者、悪人、右派)の情報を提供して、協力して家財を差し押さえる、というものがあった。大興県(だいこうけん)の殺戮は、直接県の公安局からの命令によるものだった。殺人を仕切るのは公安局の主任、党委員会書記だった。殺人を犯した者のほとんどは、子供さえ容赦しない民兵だった。多くの学者も殺戮で「態度がよい」ため入党できた。広西省だけの概算統計によると、文化大革命中で9千人あまりが殺人後に入党が許され、2万あまりが入党した後に殺人し、1万9千人あまりが殺すことに加担していた。この省だけで5万近くの共産党員が殺人事件に参与したことが統計で示されている。

      文化大革命中は、「人を殴ること」に対しても、階級理論が適応された。善人が悪人を殴るのは当然であり、悪人が悪人を殴るのは光栄であり、善人が善人を殴るのは誤解である。毛沢東がでっち上げたこの理論は、そうした反逆的な運動で広く伝わった。階級の敵に暴力を振るうのは彼らに対する「あるべき姿」なのだから、暴力も殺戮もすぐ広がってしまった。 1967年8月13日?10月7日、湖南省の人民武装部の民兵は、「湘江の嵐」のメンバーと黒五類の人々を殺戮した。66日間続き10の地区に関連して、36の人民公社、468の大隊で、2778戸の計4519人。地区の10の県では計9093人が死亡し、その中38%,が「地主、富農、反革命者、悪人」で、44%。が子供だった。最年長の被害者は78歳、最年少は生まれて10日目の赤ん坊であった。これは文化大革命の暴行の中でただ1つの地区での1つの事件だけで起きたのである。1968年初に「革命委員会」が創立された後、内モンゴルは「内モンゴル人民党」を調べ上げて35万人以上を殺害した。1968年広西で数万人が「四・二二」集団武装大虐殺に参加し、死者は11万人にものぼった。

      これらの事実からも分かるように、文化大革命中の暴力、殺戮に関する重大事件はすべて国家機関の行為であり、共産党の指導者による暴力迫害を放任し、利用した結果、庶民が惨殺されたのだ。直接これらの殺戮の凶悪犯を指揮して実行したのは軍隊、警官、武装民兵と党と団の幹部だった。 土地改革が土地のために農民に地主を殴らせることで、商工業改造は資産のために労働者に資本家を殴らせることであり、反右派運動は学者を黙らせるためである。 文化大革命に見られるこのような相互闘争から、決してどの階級にも依存することなく、たとえ共産党の頼りである労働者や農民でも、観点が一致しないと殺される。一体何故か?

      すべては共産党が天下統一を達成するためであった。 国家を統治するだけではなく、あらゆる人の思想も統治するのだ。文化大革命は共産党、毛澤東の「神をつくる」運動の最高峰である。毛澤東の理論は、独裁専制で一人の理想を全員の理想にしようとした。空前絶後と言えるのは、文化大革命でしてはいけないことを規定せず、しかも「何をすべきか、どのようにすべきか、これを除いては何もなすべきでなく、思ってもいけない」ことだ。文化大革命中は全国の人民が宗教と同様に「朝に教示を受け、夜に報告」を行なった。毎日数回、毛主席の長寿を祈り、朝晩2度にわたり政治祈祷をしていた。字を読める人なら必ず自己批判と思想の報告書を書いたことがある。言葉では必ず語録の「断固として私念を打倒する」、「理解できても執行する、理解できなくても執行する、執行の中で理解を深める」を言っていた。文化大革命の中で崇拝することを許されるのはただ一人の「神」、読めるのはただ1冊の「経」、つまり毛主席語録だった。さらに語録を暗記していないと、食堂でご飯を買うことすらできなくなっていた。買い物していても、車に乗っていても、電話をかけても関係のない語録を少なくとも一つを言わなければいけなかった。人々はその時に熱狂的に興奮するか、あるいは無感覚になるかで完全に共産党の邪霊にコントロールされていた。うそを捏造し、うそを我慢し、うそに頼るのはすでに中国人の生活方式になっていた。

七、改革開放---暴虐は変らず、時とともに進む

      文化大革命は、鮮血にまみれ、憎悪の魂が空に満ち、良知は絶え、黒いものも白いとする善悪が反転した時代である。文革以後、頭目の旗は変わり共産党の政権は20年数年の間に6代の指導者を交代した。私有制度が再び中国に戻り、都市と農村部の格差が広がり、砂漠の面積が増え、川の流れが分断され、麻薬販売・売春も今までにない勢いで増加するなど、共産党が「消滅させる」と称していた罪悪の数々は、結局自ら育ててしまうことになった。

      共産党が生み出した、残虐非道の心、非人間性、魑魅魍魎の行い、国への禍は増える一方である。六四天安門事件では戦車で学生らを踏み潰し、最近では法輪功修練者に対する暴虐な迫害など、言葉では言い尽くせない。2004年10月、農民の土地を没収するために、1600名の治安警官を動員し、50名の農民を相手に銃を発砲し殺傷した。現代中国の統治方法は、未だに共産党の闘争哲学と暴力崇拝である。唯一変わったのは、欺瞞が増長したことだ。

     【法律】共産党が絶えず闘争を起こし、数多くの国民を「反革命分子」、「反社会主義分子」、「悪分子」、「邪教徒」にした。その為、その独裁政権は、多くの民間団体と尖鋭な衝突が起こした。共産党が「秩序を守り、社会の安定を維持するため」との大義名分で度重なる「法律」と「条例」の改定を行ってきた。民衆が不満に思ってもそれを「反革命行為」と名づけて弾圧するのである。1999年7月、江沢民は、多くの政治委員が反対したにもかかわらず、個人の意思で法輪功の弾圧に踏み切った。「3ヶ月以内に法輪功を消滅させる」ために、嘘とでっち上げが天地を蔽った。江沢民が法輪功を「邪教」と定義した直後、政府メディアが次々に発する文書で全国官庁・企業に対して圧力をかけ、全国人民代表大会(共産党がコントロールする中国の国会)もそれに従って、「邪教」を処置するための訳のわからない「決定」を下した。その後、最高裁判所と最高検査院が人民代表大会の「決定」に対する「解釈」を公開した。1999年7月22日、新華社が中共中央組織部、宣伝部トップのスピーチを載せ、江沢民の法輪功弾圧を支持した。広大な人民群集をこの神人共に怒りに震える迫害の渦中に巻き込み、「共産党中央」が決め付けたことにより、ひたすら実行され、異議を唱えることが許されなかった。それ以降の5年に渡って、国家資産の1/4の財力が費やされた法輪功弾圧。 国民一人ひとりが態度の表明を強制された。法輪功修練者であることを認め、そしてあきらめない人は職をなくし、強制労働収容所へ送られた。彼らは何の法に違反したわけでもなく、国や政府に反対しているわけでもない 、ただ真善忍を信じたがために千人、万人が拘留され、中共が堅く情報をコントロールしているが、親族から確認できた範囲だけでもすでに1100以上の法輪功学習者が命を失ったのである。確認できない人たちを含むと更にその数は膨らむ。

     【マスコミ】2004年10月15日付の香港文匯報に試験衛星の回収についての記事があった。中国の第20号の試験衛星が地球に落下、四川省大英県蓬莱町の霍積玉氏の家屋を壊した。記事には大英県政府弁公室責任者の艾裕慶の「この黒い物体は確かに科学衛星の船体である」が引用されていた。艾氏本人も衛星回収現場の副指揮者であった。しかしながら、新華社のニュースでは衛星の到着時間が語られ、中国が回収した第20号の技術試験衛星だとも強調したが、衛星が家屋を壊したことについては一言もなかった。こうした都合の良い面だけを伝え悪い面を伝えないのも共産党の指示によって行われる一貫したやり方である。 毎回政治運動を正当化するために、新聞・テレビの偏った、偽った報道を利用してきたのである。共産党の命令一つで各地のメディアは一斉に動き出す:「反右」と共産党が宣言したら、全国の新聞社が「右翼の罪悪」について報道をし、共産党が「人民公社」を実施する政策を打ち出したら、彼らがまた人民公社の利点について語り尽くした。法輪功弾圧から1ヶ月の間、テレビ・ラジオがゴールデンタイムに全国人に対する洗脳番組を繰り返した。その後、江沢民があらゆるメディアを利用して法輪功学習者の「自殺」と「殺人」などをでっち上げた。その中、「天安門焼身自殺事件」は国連教育発展組織に「政府が起こした公然詐欺」と断定された。過去5年に中国の新聞紙・テレビに法輪功の真実について報道したものは1件もなかった。

      民衆は中国メディアの嘘を見ても怪しまない。新華社のあるベテラン記者が自ら「新華社の報道なんて信じるわけには行かない」とコメントした。民間は中国の新聞機構を共産党の番犬と呼んでいる。ある民謡では「共産党の番犬だ。玄関で待っていて、誰を噛めといえば噛むし、何回噛めと言われれば命令に従う」。

      【教育】教育は民衆をコントロールするためのもう一つの手枷足枷である。教育は本来知識人を育てるためにあるもので、「知識」とは「知」と「識」からなっている。「知」とは情報・資料・伝統文化・時事などの理解で、「識」とは知りえたことに対する分析・研究・批判またそれを用いて創造する精神的な過程である。「知」だけで「識」が無ければ勉強の機械であって、社会良知を持つ真の知識人とは言えない。中国で従来尊敬されてきたのは「有識之士」で、「有知之士」ではないのはこの故である。共産党独裁の下で育った「知識人」はこう言った「知があって識が無い」者たちばかりで、「識があっても、あえて使おうとしない」学者がほとんどである。学校でも学生たちに共産党一党独裁維持のための「やってはいけない」ことについて教えるのである。一貫して、授業に政治と共産党史の科目が設けられており、統一教材を使用している。教師たちは教材に書いていることを信じていないが、 「紀 律」があるので心ならずも嘘の話をせざるを得ない。生徒たちも教科書及び先生の話を全部は信じておらず、試験のために丸暗記をしなければならない。中学・高校・大学の試験には法輪功を批判する内容が実際出題されており、模範解答を出さなければ高い点数を得ることができないばかりか、真実を答えたら学籍を奪われ、進学の資格も取り消されるのである。

      民衆を教育するために、新聞などからいろいろな材料が耳にたこができる程繰り返し伝えられる。たとえば、「敵が反対することは我々が擁護する、敵が擁護することは我々が反対する」などの語録が事実上の倫理道徳基準になっており、人々の善良な本性や客観的な判断基準を酷く蝕んでいる。2004年に中国情報分析センターが新浪ネットで行った電子調査を分析した結果、82.6%の若者が戦争中に起きる婦女及び捕虜に対する虐待に賛成することがわかった。これには意外性のほか、中国民衆、殊に若い世代が伝統文化の仁政・人性に関する知識及び意識の低さを物語っている。2004年11月9日に蘇州で起きた28名の児童を包丁で殺傷した事件、9月20日に山東省で起きた25名の小学生を殺傷した事件、学校の資金を調達するために、教師が小学生に爆竹を手作りさせたところ、爆発が起きて子どもたちが亡くなった。

      【政策の施行】共産党の指導の下、政策を施行させるため往々にして強制・脅迫的な手段を取る。政治スローガンはその中の一つである。長年にわたって共産党政権は、スローガンの数を業績として評価してきた。文化大革命の時、北京の街は一夜にしてスローガンの紙で染まった「赤い海」となっていた。「共産党内部に資本主義路線を歩む権力派は打倒せよ!(農村部では略して「権力派を打倒せよ」)」などが随所見られた。最近、「森林法」を宣伝するために、林業局から宿題として張るべくポスターの枚数についての通知があった。それをクリアしないと認められないのである。その結果、施行部署は「山を焼く人は務所行きだ」のような張り紙を大量に出した。一人っ子政策を遂行させるために恐ろしいスローガンもある。「一戸でも二人目を生んだら、村の女性が全部手術を!」、「一人死んでも、予定外の一人を増やさない」、「手術すべき人が手術しないと、家が倒壊。妊娠中絶すべき人が中絶しないと、農地と牛を没収する」。ほかにも「今日、税金を納めないと、明日は刑務所」のような人権も憲法も無視したスローガンもある。スローガンは一種の広報手段である。直観的で、見る回数も多い伝達手段なので、中国政府が政治的意思伝達や呼びかけによく用いる一方、民衆との対話でもあるので、 政策宣伝の中から暴力と残虐さが満ちていることが読み取れる。

八、全国規模の洗脳、地面に丸を書いていたる所を牢とする

      中共の最も威力のある統治手段はネットワーク的なコントロールであり、組織を使って人々に奴隷の思想を植え付けるのである。前後しても、矛盾しても構わないが、とにかく組織を利用して人間が持つべき基本的な権利を奪い取るのだ。中央政府のくちばしは社会の隅々まで伸びており、都市部でも、農村部でも町の住民委員会が存在しており、結婚・離婚・出産は全てそれの許可を得る必要がある。共産党の思想形態・体系、組織モード、社会構造、宣伝機構、実行体系の全部がこの権力のためにあり、つまり全政府組織を駆使して民衆の行動、並びに思想をコントロールするのである。

      共産党統治の残酷さは、肉体に対するものだけではない。人間独自の判断能力を奪い、または独立な見解を持っていても発言できなくして、国民を生活の平穏さのみを求める弱者にすることにポイントがある。その目的は社会の一人一人を洗脳することにあるが、洗脳で彼らが共産党と同じことを思い、同じ話題で話し、共産党の思うままに操られる。あることわざのように、「共産党の政策は月と同じで、一日と十五日は形が違う」とあるが、政策がくるくる変わっても人民はそれに追随しなければならない。他の勢力を倒すために利用されても共産党の「使ってくれた恩」を、革命の対象になっても「教育してくれた恩」、自分が受けた迫害が過ちと認められ、冤罪が晴らされた時でも、共産党の「寛大さと、間違えを知って修正した」ことに対して感謝しなければならない。共産党の暴政は、こうした迫害と名誉回復の繰り返しで実現されている。

      55年におよぶ暴虐的な統治を経験した今日の中国人は思想面で、「地面に丸を書いて牢とする」状態にあって、もはや共産党が規定した硬い枠にはめられていると言えよう。枠より少しでもはみ出れば命の危険に曝される。数多くの革命・運動の後、中国では愚昧が知恵とされ、忍ぶことが生きていく為の術となっている。インターネットが人同士の交流の主要なツールとなった今日でも、一般市民がインターネットで閲覧できる範囲は自主的に規制し、外からのニュースを読むことができないのは当然であり、「人権」、「民主」などのキーワードを持つウエブサイトを見ることもできない。

      このように共産党の馬鹿げた、残酷、卑怯な洗脳は、あらゆる面に満ちている。それが中国社会の価値観を倫理道徳観念の根底から壊し、中華民族が古来有していた行動基準と生活方式を崩した。共産党は自分たちの思想に唯一の正当性を与えるために国民に対して、肉体と精神面での侵害を絶えず行ってきた。

結論:

      ここまで述べてきたところで、共産党が年々、日々闘争を止めないのは一体なぜか。目的を達成するためならば、殺人も、生態環境破壊も、中国の大部分の農民と都市居住者を長期にわたって貧困にしても惜しまなかったのか?

      これらは共産党の理想なのだろうか?違う。共産党の党是の一つは、私有制度を消滅させることであり、これは私有制度が諸悪の根源だと思っているからである。共産党が政権獲得の時には私有制度の全面的消滅に励んでいた。しかしながら、改革開放に伴って、私有制度がまた中国に戻ってきた。今や憲法も私有財産の保護を規定している。共産党の目くらましから離れられれば、人は誰でも、55年来、共産党の統治は財産再分配の人間活劇を演出したに過ぎず、回りまわって、最終的には人の財産を己の私有財産にしたに過ぎない。もともと、共産党は自分たちを「労働階級の先鋒」とし、その使命は資産階級を消滅することだとしたが、今や共産党の規則では、資本家が入党できると明言している。逆に、共産党員でも共産党と共産主義を信ずる人がいなくなり、今や共産党に実質的に残っているのは上辺だけとなっている。

      こうした長期に渡る政治闘争は、党の廉潔さを保つためなのだろうか?いや違う。共産党が政権を握ってから55年になるが、今の共産党幹部は汚職・腐敗・不法行為・国を誤り、民を害し、上から下まで甚だしいことこの上ない。中国には2千万人の共産党官僚がいるが、近年の調査では、そのうちの8百万人が汚職・腐敗で処罰を受けていることがわかった。更に毎年100万近くの人々が、まだ知られていない汚職官僚を上訴している。2004年の1月から9月の期間において中国国家外貨管理局が全国35の銀行及び41の企業に対して調査したところ、違反契約金額が1.2億ドルにも及ぶ集計結果となった。他の統計によれば、近年4千名以上の共産党幹部が外国へ現金を持ち逃げしたことによる国の直接損失が数百億ドルにも及んだ。

      それではこういう政治闘争は国民の素質と認識を上げ、国家の大事に関心を持ってもらうためなのだろうか?違う。共産党の教育を受けた中国では物質的欲望が横行し、人心は昔と違って、騙し合いは随所に見られる。多くの国民が重大なことに対しても知らず言わず、知っていても言わず、本当のことを言わないことが中国で生存するための術ともなっている。これと時を同じくして、民族主義的な情緒がぽっかり明いた隙間に入り込み、簡単に煽動される。政府の意向で国民がアメリカ大使館に行って石を投げたり、アメリカの国旗を燃やしたりする。共産党に欲しいのは「順応型国民」と「暴動国民」の両方であっても、決して人権が保障される国民ではない。文化修養が素質を高める根本である。中国建国以来数千年、孔孟の道は人々に礼儀綱紀を設けさせた。「之を棄てるが如きは、則ち人皆主無く、是定まる所を知らざるに非ず、進退守る所を知らず、・・・是大乱の道なり」。

      共産党が唱える「闘争の哲学」の目的は大乱を作り出し、動乱を絶やさず、一党独裁の教主の地位を樹立するためにある。一つの党の思想で全国民を統治し、政府・軍隊・新聞・テレビ局は全て共産党の行う暴政の道具となっている。共産党が中国にもたらした災厄はすでに手の施しようがなく、今はもはやそれ自身の滅亡の危機に直面している。

      共産政権解体後、天下大乱になると考える人もいる。 共産党の代わりに誰が中国を支配するかと心配する。中国五千年の歴史の長河の中で、共産党の55年の統治は一瞬の出来事に過ぎない。僅か55年でも、伝統的信仰と価値観は徹底的に壊され、古来の倫理道徳と社会体系が解体した。人々の思いやり・協調は、闘争やそれがもたらす恨みへ転化した。天地自然への畏敬は思い上がった「人が天に勝つ」へ変わった。これらの社会道徳及び生態環境の全面崩壊で中華民族は深刻な危機に陥った。

      中国の歴史を見ると、賢明な政治家はいずれも「民を愛する」、「民を豊かにする」、「民を教育する」ことを政府の基本としている。人間は誰しも善の心を持っており、政府にそれを引き出す義務があると考えられる。孟子曰く「民の道と為すは、恒産あれば恒心あり、恒産なければ恒心なし」であり、裕福にさせないで国民を教えようとしても現実的でなく、民を愛することなく罪のない人の命を奪うのは暴虐である。中国五千年の歴史の中、仁政を行った政治家は少なくない。古代には。尭舜、周朝の文帝・武帝、唐の太宗、清の康煕、乾隆帝など。これらの皇帝は皆「王道を行い」、「中庸を保ち」、「平衡を求める」が模範である。仁政の特点は、有能な人が採用され、言論の自由を与えて、睦みあうことを説き、民は、礼儀・法律を遵守し、安らかに暮らし楽しく働く。 天下の趨勢を観るに、興亡は個人の定めるところではなく盛衰はいわれのあることである。共産党なき日は、人の間に必ず祥和の気がもたらされ、それ故に誠実・善良・謙遜・寛大となり、国は豊かさに満ち、栄えるだろう。