大紀元社説シリーズ『九評』(共産党についての九つの論評)
【その二】中国共産党はどのようにでき上がったかを評する
     「説文解字」によると、「党、黨とも書く」は即ち「尚黒」の二文字からなる。「党」、「党人」など、中国語の.中では貶す意味がある。 孔子曰く「君子矜而不争、群而不党」、意味は「君子は矜(きょう)にして争わず、群して党せず」。「論語」の注解はこの様に書いてある、 党とはお互いの悪と不正を隠し合うものである。中国の歴史の中にある小政治集団はよく「朋党」と呼ばれている。中国伝統文化の中での定義は良くない概念であり、 徒党を組んだ悪仲間である。「党を結び」というと、「私利を営む」というように連想される。

     では、近代の中国で、「共産党」が現れ、勢いに乗り政権を奪い取れたのは何故だろう。中国共産党が人々に植え付け続けたものは、「歴史が中国共産党を選択し、 人民が共産党を選択した、共産党がなければ新中国も無い」というものである。

     中国の国民が自ら共産党を選択したのか、或いは、共産党が党を結び、私利を営み、国民に強制し、押し付けたのか、歴史の中で答えを探すしかない。

      清の終わりから民国の初期まで、中国、この古い国は、外来の衝撃と内部の激変の挟間で苦しみ、社会は混乱していた。世を変え、国を救う志を持った志士と多くのインテリ層の人々は憂い苦しんだが、国難と混乱の中、彼らは焦り、次第に絶望に落ち入った。国の病を治すため、手段を択ばず、中国以外のところで万能薬を探し、イギリス式が駄目ならフランス式、フランス式が駄目ならロシア式と、劇薬の使用さえ惜しまず、出来れば一日で中国を奮い立たせたかった。

     「五.四運動」はその絶望感の産物である。ある人は無政府主義を主張し、ある人は孔子の学説否定を唱え、ある人は西洋文化を導入すべしだと主張した。つまり、中国の伝統文化に否定の態度を取り、中庸の道を捨て、焦って近道を選び、すべてを破壊すべきだと主張した。中の過激派は国恩に報えないことに無念を感じる一方、自分の理想と意志を信じて疑わず、現実の世界がもう救いようがなく、自分だけが歴史発展の鍵を見つけたと考え、革命と暴力に情熱を注いでいった。

      違った境遇により人々はそれぞれの理論、学説と道にたどり着く。やがてある人たちはソビエトからの共産党連絡人と出会った。暴力革命による政権の奪取というマルクス、レーニン主義が彼らの焦る気持ちと共鳴し、国と国民を救おうという彼らの願望に符合した。このようにして、全く異質なこの異国思想は彼らによって古い中国に注入された。

     中国共産党第一次代表大会に参加した十三人はその後ある者は死し、ある者は逃亡し、或いは日本に組し、または国民党に転向したものを除き、1949年共産党が政権を握った時には毛澤東と董必武しか残らなかった。これらの共産党設立者達が、ロシアから招いた“神霊”は悪霊だった、そして国を奮い立たせた薬は猛烈な毒薬だった事を知っていたのだろうか。

     当時、ソビエトロシア共産党(ボルシェビキ)は政権を取ったばかりだが、中国に対してすでに野心を抱えていた。1920年、ロシアはシベリアで第三コミンテルン極東書記局を設立し、中国などの共産党の設立を担当し、管理していた。主管はSumiltsky、副主管はVoitinskyであり、陳独秀等と一緒に中国共産党の設立の準備を開始した。1921年6月彼らが第三コミンテルン極東書記局に提出した中国支部の設立計画書は、中国共産党が第三コミンテルンの下の支部である事を明記した。1921年7月23日、Nikolsky とMaringの監督の下、中国共産党が正式成立した。

     その日から、共産主義運動が中国に試験的に導入され、党の生命がすべてを超越し、すべてを征服し、中国に限りない災難をもたらした。

一、中国共産党の形成は中外の悪の総集過程である

     五千年の文明史を誇る中国に外部から共産党と言う異質のものを植えつける事は容易ではなかった。中国共産党は大同の世を打ち立てるという共産主義の思想で民衆と愛国の願望がかなえられなかったインテリを欺き、その上レーニンによってねじ曲げられていた共産主義の理論をさらに曲げて、それを根拠に、かれの統治にとって不利なすべての伝統と価値観を破壊し、不利なすべての社会階層と人を消滅させた。中国共産党は工業革命による信仰への破壊、より徹底した共産主義の無神論をもってきた。また共産主義の私有制否定、レーニンの暴力革命理論も持ってきた。それと同時に中国帝王制度の最も悪い部分を継承し、発展させた。

     中共の形成は中外の悪を少しずつ集合していく過程であり、その中で“中国独自”という九大遺伝子「邪、騙、煽、闘、奪、痞、間、滅、控(コントロール)」を完成した。この九大遺伝子は今も受け継がれ、更に力を増している。

(一) 遺伝子その一:邪――マルクス、レーニン主義をまとう

     当初マルクス主義が中国共産党員たちを魅了したのは「暴力革命による国家体制の粉砕と無産階級の政権成立」であり、これはマルクス、レーニン主義の根本的な邪悪のゆえんである。

     マルクスの唯物論は生産力、生産関係、および剰余価値の狭い経済概念で叙述されたものであり、まだ発達していなかった資本主義社会の早期で局部的、近視眼的な予言で資本主義の滅亡と無産階級の勝利を述べたが、既に歴史と現実がそれを否定している。マルクスレーニン主義の無産階級の暴力革命と無産階級の専制は、強権政治と無産階級の主宰を主張している。「共産党宣言」は各階級の対立と階級闘争でもって共産党の歴史観と哲学観を述べた。無産階級が、すでにある伝統的道徳と社会関係は打破し、政権の奪取を目的とした。始めから共産主義は一切の伝統と対立する位置を取った。

     人間の天性は暴力を普遍的に排除するものであり、暴力の中では人間は更に暴力的になり、共産党の暴力学説は根本的に人類の天性によって否定されるものである。これまでにある思想、哲学、伝統のなかに見当たらないものであり、突然、近代に現れた恐怖の体系である。

     これらの悪しき観念の前置きは“人間は必ず天に勝つ”,“人為的に世の中を改造する”というものである。共産党は“全人類の解放”、“大同の世”という理想によって、多くの人々を引き付け、社会に対する危機感と使命感を持つ人はたやすく共産党に騙された。そして、彼らは天道を忘れ、“人類のパラダイス”を作ろうという虚言の中で、功績を作り上げながら、伝統を蔑視し、他人の人命を軽視し、更に自分の生命も価値のないものにしていった。

     人造の“共産主義世界”を真理と信じ、“満ち溢れる熱き血潮すでに沸騰し、真理のために捧げよう”、共産党はこの絶対的、荒誕的な理念を用い、人と天のつながりや、祖先とのつながり、さらに民族伝統の血脈も断ち、人々に共産主義に身を捧げようと呼びかけ、それによって共産党の虐殺エネルギーを増幅させた。

(二) 遺伝子その二:騙――邪悪が神に成りすますには騙しあるのみ

     邪悪は必ず騙す。共産党は労働者階級を利用した時、彼らは“最も進歩した階級”で、“公平無私”、“指導的な階級”、“無産階級革命の先陣”などと称した;農民階級を利用した時は、“貧民がなければ革命も無い;彼らを攻撃する事は革命を攻撃すること”と賞賛し、“耕す者に畑を与える”と約束した;共産党は資産階級の力を借りる時、“無産階級革命の同路人”と称し、“民主共和を約束した”;共産党は国民党に消滅されそうになった時、“中国人は中国人と戦わない”と叫んだ。しかし対日戦争が終わると、内戦をぼっ発し、国民党の政権を倒し、また建国後すぐに資産階級を消滅させ、最後に、労働階級も農民階級も、全く何も持たない無産階級に変えた。

     統戦(統一戦線)は共産党の典型的な騙し方である。内戦で勝つために、共産党は地主と富農の全家族を抹殺する方針を変え、地主と富農のような階級の敵に対しては、“臨時的統一戦線政策”を取った。1947年7月20日、毛澤東は“少数反乱分子を除き、すべての地主階級に対し緩和的措置を取り、敵対分子を減少させるべきである。”と指示したが、共産党は政権を手に入れた後に、地主と富農階級は抹殺される運命から逃れられなかった。

      言行不一致。共産党は民主派を利用した時に「長期共存、互い監視し合い、密接な関係を築き、苦楽を共にする」と唱えたが、いかなる反対意見も、異なる思想、言動、組織もすべて抹消した。マルクス、レーニンと中共の指導者は皆、ほかの誰とも政権は共有できないと明言した。共産主義は始めから独裁政治の特徴を持っている。その専制排他性は、政権奪取の時であれ、政権を握っている時であれ、共産党はいかなる他の政党と誠意を持って付き合う事がなかった。いわゆる緩い時期もせいぜい“花瓶”の待遇にすぎない。

     歴史的教訓は:共産党の承諾は信じてはならない、いかなる保証も実現しない。共産党を信じたら、命の保証は無い。

(三) 遺伝子その三:煽――恨みを作り上げ、人と人を戦わせる。

      騙すのは煽るためである。闘争するには恨みが必要である。恨みが無いのなら作ればいい。中国の農村には、根を深く下ろした土地の宗族制度があった。共産党政権の樹立の根本的な障碍であった。農村社会は元々調和していた。土地の所有と借用は絶対対立な関係ではなかった。土地の所有者は土地を管理し、農民に貸し出した。農民は土地を耕し、所有者に地租を払っていた。地主は農民を支え、農民は地主を支えてきた。しかし、この相互依存関係を階級対立関係に、調和を敵対に、合理を不合理に、さらに秩序を混乱に、共和を独裁に変えたのは共産党である。共産党は剥奪を主張し、財産を奪うため、殺人を行う。地主や富農本人だけでなく、その家族まで殺した。農民の中に多くの人は他人の財産を奪うのに消極的だった、昼間奪ったものは、夜中に返した。この事は共産党の工作員に知られ、階級闘争への理解と認識がないと罵られた。中国で有名な“白毛女”は元々巫女だった、地主に迫害された事は無かったが、共産党は彼女を取り上げ、ストリーを作り直し、地主に迫害された典型として、京劇や舞台劇やバレエに、国民に大いに宣伝し、恨みを煽る材料とした。

     一部分の人間の恨みを煽って、もう一部分の人間を殺させるやり方は共産党の典型的な手段であり、いわゆる「95%:5%」の階級区別公式である。共産党は後の一連の運動でそれを十分に利用し、発展させた。95%の枠に入れば安全だが、5%の枠に落ちたら、敵として戦いの相手とされる。大多数の人は恐怖から自身を守るため、必死に95%に入ろうとし、他人をおとし入れてもかまわなかった。

(四) 遺伝子その四:痞(ごろつき)――ルンペンプロレタリアートは基礎部を築く

      ごろつきは邪の基礎である。共産革命はルンペン暴動とも言う。皆知っているフランス革命の「パリコミューン」はパリにいるごろつき達が財物を奪い始め、次第に放火殺人に発展したものである。マルクスもこのような無産階級を見下している。彼は「共産主義宣言」の中で“ルンペンプロレタリアートは古い社会の腐化部分であり、無産階級革命の中に巻き混まれて来るが、彼らの生活状況により、簡単に買収され、革命の反面に立って働くだろう。”と明言してある。農民の散漫と未開は天性であり、一つの階級にもなれないとマルクスとエンゲルスは評した。

      中共は悪の面からマルクスの学説を発展させた。「ルンペンは社会に見捨てられた部分だが、実際に農村革命においては、最も勇敢で、最も徹底していて、最も信念の固い部分でもある」と毛澤東は賞賛した。ルンペンプロレタリアートは中国共産党の凶暴性を増幅し、早期の農村ポルシェビキ政権を設立した。“革命”と言う言葉に共産党は良いイメージを作り上げたが、実はこの“革命”は善良の人々に恐怖と災難しかもたらさず、“命”を取るものである。文革時期ルンペンと言う言葉が聞こえが良くないと思った共産党はこの言葉を“無産者”に改めた。

      ごろつきのもう一つ表現は厚かましいこと。独裁と言われた時、横暴な態度に出て、“敬愛なるみなさん、あなた達の言い方が正しい、まさにそのとおりだ。中国人民がこの何十年でつんだすべての経験からして、人民民主主義専制あるいは人民民主独裁の実行が必要なのだ”という。

(五) 遺伝子その五:間――浸透、離間、瓦解、乗っ取り

      騙、煽、痞の次は間である。共産党の間者の浸透術は並ではなかった。スパイ工作の“前三傑”と呼ばれていた人たちがいた。彼らは銭壮飛、李克農、胡北風である。銭壮飛は国民党中央調査科主任徐恩曾の腹心で機密管理秘書であったが、実は銭壮飛が所属していたのは中国共産党中央特務二課課長陳?であった。中華民国政府軍が中共に行った第一次と第二次の包囲殲滅戦の情報は、この銭壮飛が国民党中央組織部の郵便物を使い、李克によって周恩来の手元に送られた、その働きによって、共産党は生き延びたのである。一九三〇年四月、東北(満州)で国民党中央調査科の証書と資金を用いて、表では国民党、裏では共産党に属するという二重のスパイ組織を作った。李克農も中華民国海陸空軍総司令部に紛れ込んで電報解読員になり、中国共産党機密管理局責任者顧順章が捕まえられ、その後の変節した情報も彼が解読し、銭壮飛が周恩来に届け、それによって中国共産党は一網打尽にされる危機を避けられたのである。

      中国共産党に親しかった楊登羸は国民党中央調査科の上海駐在員だった、共産党は彼と手を組み信用できないと思われる共産党員の粛清につかった。河南省のある年よりの幹部がかつて中共幹部の機嫌を損ねたため、裏道で国民党の監獄に数年も閉じ込められた。

      解放戦争である内戦で、共産党の情報戦線は蒋介石の近辺に直接届いていた。国防部の作戦次長、国民党軍隊を派遣できる地位にいる劉斐中将はなんと共産党員であった。派遣された軍隊がまだ知らない時、延安(当時の中共本部所在地)は既に情報を得て、さらに作戦計画を練った。胡宗南の秘書と腹心の随行員の熊向暉は胡宗南大軍の延安進攻計画を周恩来に通報したため、胡の軍隊が延安に入ったとき空っぽの城しかなかった。かつて周恩来はこう話した、「蒋介石の作戦命令は軍の司令官に届く前に、毛主席はすでに読み終えていた」。

(六) 遺伝子その六:奪――「巧取豪奪」(騙しや力ずくで奪い取る)が新しい秩序をつくる

     中共の一切は奪い取ってきたものである。紅軍を作って、武装分割を行ったが、衣食住や軍備など何でもお金が掛かる。共産党の資金調達法は地方にいる金持ちから金を奪い取る事であり、強盗とかわらない。李先念の紅軍は湖北省の西地区一帯で活動していた。彼らは現地の金持ちの各家庭から一人ずつ拉致し、殺さずに人質とした。目的はその家族らに紅軍にお金を送り続けさせることである。紅軍が満足するか、人質の家財全てがなくなるかまで、ずっと人質を帰さなかった。あまりに怖かったり、苛められたりして命を無くした人もいた。

      “打土豪、分田地”の意味は土地所有者を倒し、その土地を分けることである。共産党はこのスローガンを挙げ、「巧取豪奪」を全社会に広め、伝統に代わり新しい秩序とした。共産党は悪をし尽くすが、徳を積まなかった。一部の人間に恩恵を与えるのも闘争のためだった。やがて、「善を積む、徳を重んじる」ことが消え、人々は殺し合いを覚えた。共産党が唱えた「大同の世」は実際暴力強奪の認可となった。

(七) 遺伝子その七:闘――伝統的家父長制と国家制度を打ち砕く

      騙、煽、痞、間はすべて闘、奪のためだ。共産党の哲学は闘争哲学だ。共産革命の殴打、破壊、略奪は決して無組織なものではない。党が曰く“農民が攻撃する主要目標は土豪と不法地主、その他は宗法制度と思想、都会の汚職官僚及び農村の劣悪習慣全部であり”、郷と村の伝統制度を破壊することをはっきり示した。毛澤東はこう言ったことがある、“革命は宴客ではない、文章の創作でもない、絵描きや刺繍をするのでもない、そんなに優雅で、落ち着き払って、礼儀正しく、優しく、善良で、恭しく、素朴で、謙遜であってはならない。革命は暴動であり、一つの階級がもう一つの階級を押し倒す強烈な行動である”。政権をとる時は「闘」が必要であった、その後の文化大革命でも、共産党はこの「闘」の特徴を持って次世代の教育に注入した。

(八) 遺伝子その八:滅――完全なる集団絶滅理論を創成

      共産党のやった多くのことは余地を残さないことばかりだ。インテリ層の人々に人間のパラダイスを約束したが、その後彼らを“右派”にして闘争し、“臭老九”に改造した。地主や資本家の財産に対する略奪、地主富農階級の消滅、農村秩序の壊滅、地方政権の強奪、金持ちの拉致、捕虜の洗脳、工商資産階級の改造、国民党に対する浸透と潰し、コミンテルンからの分裂と裏切り、建国後の数々の政治運動等、すべてそうある。この全ては集団絶滅理論に基いたものだ。これらの政治運動はすべて恐怖主義の集団絶滅運動である。共産党はそのスタートから絶えず完全な集団絶滅の理論系統を作り続けてきた。その階級論、革命論、闘争論、専制論、運動論、政党論等等、すべては集団絶滅の実践経験の総集である。

      共産党の集団絶滅理論にある最大の特色は人の思想と人間の良知への根絶である。これはその恐怖統治の手段利益に従ったものである。共産党を支持しないと滅ぼされる、支持しても滅ぼされる可能性がある。滅びるか否かは共産党の需要で判断される。その結果、国民の一人一人は常に危機感を感じ、共産党を恐れる。

(九) 遺伝子その九:控――「党性」を用いて全党をコントロールし、全国民や全社会を支配する

      すべての遺伝子は一つの目的のためである。テロリズムによる高圧コントロールである。共産党はその邪悪な本性ゆえにすべての社会的な力の天敵となった。成立した時から共産党は一つからまた一つへの危機の中でもがき続け、その最大の危機はずっと生存の危機であり、まさに存在が恐怖であり、永遠の危機感に付きまとわれる。危機の中、党の集団的な存在と権力の維持という共産党の最高利益をもっぱら求めた。共産党はしばしば更なる表面の悪さによってその力の不足を補わざるをえなかった。党の利益は個人党員の利益ではなく、また個人党員の利益の総和でもない。それは共産党集団の利益であり、個人の全ての上に置かれている。

      「党性」はこの邪霊の最も強烈な本質である。「党性」は無限の拡張力を持ち、人間性を 呑み込み、人間を強制的に非人間に改造していく能力を持っている。周恩来は孫丙文と同志の仲間で、孫丙文が亡くなった後、彼の娘である孫維世は周恩来の義理の娘になった。文革の中、孫維世は逮捕され、闘争された。彼女の死後、家族は彼女の頭の中に長い釘を見つけた。それは打ち込まれたものである。孫維世の逮捕命令書に周恩来の同意サインがあった。

      中国共産党早期の指導者の一人である任弼時は、抗日戦争の時アヘンの生産と管理をしていた。アヘンは列強の中国侵略の象徴であり、反民族主義という不義を敢えて無視して大量にアヘンを生産するには、確かに「党性」がないとできないことである。非常に敏感なことなので、中共は「石鹸」をアヘンの代名詞として使い、国外へ輸出し、経費を稼いだ。 任弼時の誕生百周年の時、中国共産党の新指導者は“任弼時は品徳高く、模範的共産党員であり、彼は信念が固く、党の事業に忠誠を尽くしていた”と高くその「党性」を評価した。

      もう一人の「党性」の模範人物は張思徳である。党は彼が煉瓦作りで亡くなったと言って いるが、民間では彼の死はアヘンを焼く時の事故によるものだと言われている。張思徳は黙々と中央警備団に一兵士として、昇進を求めなかった事で、彼の死は“泰山より重い”と党に褒め称えられた。彼の後“革命機械のなかの錆びない螺子”と賞賛された雷峰も「党性」の模範人物であった。彼らは長い間全国民への教育に使われ、彼らのように党に忠誠を尽くすよう要求された。共産党の英雄模範はすべて党の鋼鉄のような硬い意志と党性原則の範例とされた。

      政権を手に入れた後、共産党の思想を制御する特徴がいっそう光彩を放った。党は何代にも渡ってこのような「工具と螺子」を精巧に作り上げた。「党性」は一貫した思惟パターンと行動パターンとして強化され、全国に普及させた。「党性」は一つの定式として、国家と言う皮をつけ、全国民に自己洗脳をさせ、邪悪に服従と協力をさせる機制を作った。

二、中国共産党の不名誉な歴史

     中国共産党は自身の歴史が“勝利から勝利へ”という輝かしいものだと言う。これは共産党政権に合法性を賦与するためである。しかし、中国共産党の歴史は不名誉なものだった。中国共産党は「邪、騙、煽、闘、奪、痞、間、滅、控」の九大特徴を発揮し、政権を手に入れたのである。

(一)中共の成立――ロシア共産党の“乳”を飲み、成長した

     中共は国民に「十月の砲声は中国にマルクス、レーニン主義を送ってきた」といい続けているが、実際中共成立当初はソビエトのアジア中国支部で、始めから国を売る政党だった。

      成立当初、中共は金も、理論も、実践経験もなく、更に定見もなかった。コミンテルンへの加入は暴力革命への参与と依存である。中国の暴力革命とマルクス、レーニン時期の暴力革命とは同じ流れのものである。コミンテルンは世界各国政府の政権を顛覆する総指揮部であり、当時中共はコミンテルンの東方支部で、ソビエト共産帝国主義東方路線を執行した。中共はソビエトの成熟した暴力革命と無産階級専制の経験に頼り、政治、思想、組織構成全てをソビエトに従った。ソビエトの地下秘密組織の生存方法を真似し、厳密な監視管制を実施した。ソビエト共産党は中共の背骨と後ろ盾であった。

      中国共産党第一回代表大会で採択された中国共産党の党規約はコミンテルンが制定したものである。これのより所はマルクス、レーニン主義、階級闘争、無産階級専制、とソビエトの建党綱要である。中国共産党の魂はソビエト式の外来品である。中共の指導者陳独秀はコミンテルン代表マリンと意見の違いがあったが、マリンは陳に手紙を送り、共産党員であるなら、コミンテルンの命令に従うべきだと命じた。陳独秀は中国共産党第一任の指導者だが、この命令に従い、ポリシェビキに屈服せざるを得なかった。

      陳独秀は1923年の中国共産党第三回代表大会で党の経費はほぼ全部コミンテルンからのものだと認めた。コミンテルンは中国で年間二十万あまりを使ったが、中共の成績が悪く、コミンテルンの咎めを受けた。

      中国共産党の解密された文書の統計によると、1921年10月から1922年6月までの収入は16655元で、1924年は1500ドルと32927.17元、1927年は187674元である。毎月コミンテルンからの経費は2万元前後、中国共産党今の人脈作り、裏口買収、脅かしなどの方法は始めからすでに使用していた。コミンテルンの主管は中国共産党中央のやり方を厳しく批判していた。 「彼らは、異なった資金源(国際連絡局、コミンテルン、および軍事組織の代表など)を利用して、それらの基金を得た。1つの組織が、もう片方の組織が既に基金を分散したのを知らないから。…面白いのは、彼らが私たちのソ連仲間の心理を理解しているだけではなく、 彼らはそれぞれの基金を担当している仲間をそれぞれ異なる方法で扱うことを知っている。 彼らが、正常な手段でそれを手に入れることができないのをいったん知ると、事務的なミーティングを遅らせる。 結局彼らはゆすりに最も粗雑な手段を使用する、例えば噂を広げ、何人かの職員はソビエトがお金を中国共産党ではなく、軍閥にあげたことを批判しているようだ。」

(二)第一次国共合作――身体にくっつき、北伐を破壊する

      中共は、蒋介石は国民革命を裏切り、共産党は仕方なく武装暴動を起したとずっと国民に聞かせている。しかし、中国共産党の第一次国共合作は国民革命に取り付いて自分の勢力を発展するためであった。しかも、政権を手に入れることばかり考えて行動の中で性急にボルシェビキ革命を行い、事実上、国民革命を裏切っていたのである。

     1922年7月中国共産党第二回代表大会で、政権を手に入れようと焦っていたため、国民党との連合に反対する人が多かった。しかし、裏にいるコミンテルンはこの決定をひっくり返し,国民党との連合に加入する指令を出した。

      第一次国共合作期間、1925年1月中国共産党は上海で中国共産党第四回全国代表大会を開き、中国の指導権問題を取り上げた。共産党は孫中山がいる時から、この問題を出していた。孫中山が亡くなっていなかったら、中国共産党の目標は蒋介石ではなかった。

      ソ連の力を借り、国共合作期間共産党は国民党の中で大いに権力を握った:譚平山は国民党中央組織部部長になり、馮菊坂は工人部長の秘書になり、全権を持って事務処理し、林祖涵は農民部長で、澎湃は農民部の秘書で、毛澤東は国民党の宣伝部部長代理であった。軍と軍校の指導権はいつも共産党の関心の焦点で、周恩来は黄埔軍校の政治部主任を務め、張申府は副主任になった、周恩来は当時の軍法処の処長も兼任して、あらゆるところにソ連の軍事顧問を入れた。多くの共産党員は国民党軍校政治教官や教務職人になり、国民軍の各階級の党代表にもなって、党代表の署名がなければ一切の命令が無効と決めた。このように国民革命に取り付くことによって、1925年の千人未満の党員は、1928年では3万人にもなった。

      北伐革命は1926年2月スタートしたもので、しかし1926年10月から1927年3月まで、中国共産党は上海で三回武装暴動を実行した。そのあげく、北伐軍部まで攻撃してしまった為、武装解除された。広東省の大ストライキで治安維持隊が警察と毎日激しく衝突した。このような騒動により“4.12事件”が起こり、国民党が共産党の粛清に乗り出した。

      1927年8月、国民革命軍内の共産党が機に乗じて南昌暴動を起こしたが、すぐに弾圧された。9月長沙を攻撃する秋収暴動も弾圧された;それから中共は「党の支部を連隊に設立する」というネット式コントロール法を実施し、井岡山地区へ移り、農村の局部政権を樹立した。

(三)湖南農民暴動――ごろつきの反乱

     北伐革命期間、国民革命軍は軍閥を征伐したが、共産党は農村で反乱を起し権力を手に入れようとした。

     一九二七年の湖南農民暴動の反乱もごろつきの謀反である。著名なパリコミューンと同工異曲の妙があって、フランスの国民と当時パリにいた外国人達は皆この革命を目撃した、ルンペンたちはまったく理想を持たず、破壊力に富む一味でしかなく、高いビルに留まり、ご馳走を食べ、目の前の快楽しか知らず、将来のことは何も知らなかった。パリコミューン暴動期間、ルンペンたちは報道の自由を禁じ、国王に宣教していた主教を人質として捕まえて銃殺し、六十四人の神父も惨殺した。放火して、宮殿を焼いた;官庁、私邸、記念碑、および碑文コラムなどすべて破壊された。 フランス首都の富と美はヨーロッパで飛びぬけていたが、パリ・コミューン暴動の間、ビルは灰と化し、人々は骸骨へ化した。 そのような凶悪さ、残酷さは古今でもめったに見られなかった。

      毛澤東もこう認めていた、「農民は農村での動きが少し乱暴すぎた、農民協会の権力は最高になり、地主に発言させず、地主の威厳を完全に無くした。それは地主を倒した上、さらに踏みつけたことに等しい。農民が“私たちはもう別の台帳をあなたのために置くつもりだ!”と脅かし、地方の金持ち、紳士階級に罰金を課し、献金を強要し、彼らの輦台をつぶした。農民協会に反対する地方の金持ち、紳士階級の家へは、大勢が押しかけて行って、それらのブタを殺して、米を持ち出した。 これらの家庭のお嬢さんや若奥さんのベットに勝手に入って転げたりした。わずかのことでも、人を捕まえて高い紙の帽子をかぶせ、郷の中をつれ回した。“お前たち、今、私たちはだれなのかわかる!”と言って 、やりたい放題であった。すべてが異常になって、郷村で一種のテロ現象を作り出した。・・・とにかく、農村で短期間のテロ現象を作らなければならない。そうでないと、権力者と紳士階級を打倒できない。間違いを正すにはやり過ぎが必要であり、やりすぎがなければ間違いを正せない。・・・革命期間内でのいわゆる“やりすぎ”の挙動は、実は革命の需要である」。革命は恐ろしい秩序を作った。

(四)北上抗日――敗走逃亡

     中国共産党は「長征」の事を北上抗日と呼んでいる。「長征」は中国の革命の神話と吹聴した:「長征」は“宣言書”、“宣伝隊”“種蒔機”であり、自分達の勝利と敵の敗北で終わったのである。

      「北上抗日」は中国共産党が自分の失敗を隠すための恥知らずの大嘘であった。史実では1933年10月から1934年1月まで、共産党の第五回反包囲戦に惨敗し、農村で手に入れた政権を次々と失っていた。根拠地も日増しに縮小し、紅軍は逃亡せざるを得なくなった。これが「長征」の本当の原因である。

      西へ突破して、曲線を描くように「長征」を始めた。この路線を択んだ真意は外モンゴルとソ連に近寄る事である。当時、西に寄れば外モンゴルに近づき、腹背に敵を受けることを避け、もし、破られたら、ソ連に入り込めるようにするためである。山西と綏遠の道を選択したのは、抗日の旗を揚げて民心を掌握できる一方、その一帯は日本人がおらず、安全だから、日本軍が占拠したのは長城一線である。一年後、共産党の長征部隊が陜北に到着した時、中共紅軍の主力は八万人から六千人に減っていた。

(五)西安事変――「間」(スパイ)を成功に用いた、二回目の憑き物

     「西安事変」は一九三六年十二月張学良と楊虎城が西安で蒋介石を軟禁し、軍が反乱した兵変である。

      中共の教科書によると、西安事変は張学良と楊虎城が武力を持って、蒋介石に一致抗日をさせるための“兵諫”であり、善処策を相談するため中国共産党の周恩来を招いた、結局全国各界の協力で事変が平穏解決し、十年の内戦を終え、抗日民族統一戦線を形成し、中国危局からの転換点になったと。中共は自身を大局を重視した抗日愛国者のように描いている。

      しかし多くの資料が現れてくるにつれ、西安事変の直前張学良と楊虎城の身辺にはすでに多くの共産党のスパイたちが集っていたことが示された。共産党員の劉鼎が宋慶齢の紹介で張学良の側に来た。西安事変発生後、毛澤東が言った言葉として“西安事件は劉鼎が功績大だ”。楊虎城の身辺で夫人の謝葆真は即ち共産党員で、楊の軍政治部に勤めていたが、1928年1月中共党組織の批准の下、楊虎城と結婚した。その後外交副部長(外務副大臣)にまで成った王炳南が楊家の上客であった。楊,張の周辺は多くの共産党スパイがいてこの兵変を起したのである。

     事変の始め共産党は内戦時の恨みを晴らすため、蒋介石を殺害しようとした。当時中共の北部では弱小であり、ひとたび戦えば壊滅する状態であったが、中共は騙しで張、楊を操り兵変を成功させた。スターリンが日本の力を分散させ、ソ連への攻撃を避けるため、自ら中共中央に手紙を書き、蒋介石を殺さないように命令し、第二次国共合作を求めた。毛澤東と周恩来も当時の中共の力で国民党を消滅する事は不可能であり、蒋介石を殺しても共産党は国民党の報復により滅ぼされるであろうると分かっていた。そこで、中共はやり方を変え、連合抗日を称して、蒋介石に第2次国共合作を受け入れさせたのである。

      先に共産党は兵変を策動して蒋介石を刀の下に置いたのに、ガラリと変って京劇の英雄みたいにいいことを言い、蒋介石に再度共産党と組むことを迫ったのである。中共は災厄を逃れただけでなく国民政府に再度取り付き、紅軍が八路軍と改名し、再び勢力を盛り返した、この巧妙な騙し方は天下一品である。

(六)抗日戦争――他人を唆して敵を殺させ、自分は拡大し続ける

      抗日戦争開始時、国民党は百七十万あまりの軍隊、排水量十一万トンの軍艦、各種飛行機約六百ぐらいを持っていた。共産党はそのとき1937年11月に新しく編入した新四軍を含めたとしても、七万人を超えなかった、内部の権力闘争も絶えず、一戦で全滅させられる程度であった。中共はよく知っていた、もし軍を出して日本人と戦ったら、日本軍一個師団にも勝てない。中共にとって、民族統一戦線の中心問題は民族の存亡より主導権を握る事である。そこで共産党は「蒋介石と連合する過程で主導権を奪い取るために闘争すべきであり、その話は党内に限り、実際の仕事で実現する」という方針を決めた。

      9.18事変後、共産党は、日本軍との示し合わせ作戦に加担した。中共の満州事変宣言の中で全国民に「国民党の統治区内で、労働者はストライキを起せ、農民は暴動を起せ、学生は授業をボイコットせよ、軍隊は反乱を起せ」と、中国政府を押し倒すことを呼びかけていた。

      共産党は抗日の旗を高く揚げたが、八年の中に、日本との戦いは平型関など数えるほどの物以外、抗日戦績と言えるものがなく、後ろの安全地帯で地方軍とゲリラを編集し、自分の力と区域を拡大していた。日本軍投降時、投降した軍隊を自身の軍隊として受け入れて九十万の正規軍と二百万の民兵を称する強大な力に拡大した。抗日戦争の真正面の戦場をすべて国民党軍にやらせた。抗戦中、中国民党の将軍は二百人も戦死したのに、共産党の指揮官はほぼ無傷だった。しかし、中国共産党の教科書では絶えず国民に、国民党が抗戦せず、共産党の指導で抗日戦争の勝利を収めたと教え続けている。

(七)延安整風――度肝を抜かれるような人間のぶち壊し方を作り出した

     抗日の名の元に無数の国を愛する若者が延安に集まって来た。延安の整風で千にも万にも上る若者達が迫害された。建国以来延安は“革命の聖地”とされてきたが、延安整風の罪悪が語られることはない。

      「延安整風運動」は最も恐怖に満ち、最も暗黒で、最も残忍な権力ゲームであった。資産階級の考えを改めると言う名目で、党は人間の文明、自立、自由、容忍、尊厳といった価値をぶち壊していった。整風の第一歩は一人ずつの資料のまとめである。それは「@個人紹介、A政治履歴、B家庭関係と社会関係、C個人自伝と思想変化、D党性の認識」である。

      この資料は出生から書かされ、知っている全ての人、出来事、その出来事の発生時間、場所、繰り返し書かされ続けた。少しでも違いがあったら、問題人物になる。また参加したすべての社会活動、特に入党の過程を報告しなければならない。重要なのはそれらの過程での考えであり、最も肝心な事は党性への認識で、思想意識、言論、工作活動における態度、日常生活、対人接触の上で、党性に反するものがないかどうかがチェックされた。思想意識を例に取ると、入党入隊後党の名目での個人の利益を考えるかどうか、党の仕事の名義で個人の目的の達成を求めるかどうか、革命前途に動揺したかどうか、戦闘で死を恐れるかどうか、家や妻を思念するかどうか等である。客観的基準がないのだから、問題のない人はいない。

      審査する幹部は無理やり書かせた手紙で、内部を粛清しようとしたので、必然的に数限りない冤罪を作り出した。整風当時の延安は人性の煉獄と化し、多くの幹部を傷つけた。抗日軍政大学に審査する幹部が滞在し、2ヶ月の赤色恐怖を持ちこみ、即席の自己批判を強要され、模範的な告白、集団の説得、五分間の説得、個別会見、大会報告、赤大根(外が赤で中が白)(赤を装っているの例え)等等、が繰り広げられた。“写真を撮らせる”、一人一人、演台に上がらせて観衆に見せるというものである。顔色を変えなければ問題ないが、そうでなければ嫌疑分子にされ、審査対象となった。

      さすがのコミンテルンの代表も耐えられず、延安の情形は人を挫けさせると言った。 人は人と交流せず、疑心暗鬼、緊張と恐れが充満して、真理または冤罪の友人のために弁護をしようともしなかった。ただ自分の命を守ろうとした、ごろつきがごますりで昇格し、同士を侮辱し、己を侮辱するのが延安生活の特徴となった。人々は発狂しそうで、ただ命と職を保とうするだけとなり、栄辱尊厳、同志間の愛などすべて捨てられた。人々は自分の意見を述べず、党の指導者の文章を暗記した。このやり方は、そのまま共産党による中国建国後の大小運動の鏡となった。

(八)三年の内戦――売国奪権

ソ連の二月革命は穏やかな資産階級革命であった、ツアーも国家と民族の利益の為に退位し反抗しなかった。レーニンは急いでドイツからロシアに戻り、再び政変を起し、ツアーを退位させた資産階級革命者たちを殺害し、共産革命を起し、ロシアの資産階級革命を絞め殺した。中国共産党もレーニン同様国民革命の勝利の果実を奪い取り、抗日戦争後、国民政府を倒す“解放”戦争を起し中国を再び戦争の災難に陥れた。

中国共産党は人海戦術で知られている。遼沈、平津、淮海戦役では人肉を武器,盾にする最も原始的、野蛮かつ非人道的な戦術で多くの命を奪った。長春攻囲戦のとき、長春城内の糧食を消耗させる目的で、共産党は2ヶ月間、長春を包囲し、中にいる一般民衆も含め一歩も城外に出さなかった、その結果20万人もの人が餓死凍死したが、恥じる様子も無く“長春解放は兵の刀を血に染める事は無かった”と嘯いたのだ。

1947年から1948年の間ソ連と「ハルビン協定」と「モスクワ協定」を結んだ。ソ連に国の権益と東北の資源を売り、その見かえりはソ連による中共の外交上と軍事上の全面支持であった。協定により、ソ連が中国共産党に50機の飛行機を援助、敗戦した日本軍の武器を二回にわけてすべて提供し、ソ連のコントロール下にある東北の弾薬や軍用物資も安い値段で中共に提供すること;国民党が一旦東北へ上陸作戦を敢行したら、ソ連中共秘密共助で中共の作戦を進めること;ソ連が中共の新疆制陸権奪取を援助し、ソ中連合空軍を樹立、11個師団規模とすること;ソ連が米国がソ連へ供与した130億米ドルに及ぶ武器の三分の一を東北に運ぶこと。またソ連の支持を取り付けるため、中共がソ連に東北の陸路、空中通過権を与えること;国民党政府及び米軍の動向を通報すること;東北の物産、綿花、大豆、その他の戦略物資をソ連に提供して優秀な武器を交換すること;ソ連が中国の鉱物資源開発優先権を持つこと;東北及び新疆への進駐権、中国でのソ連極東情報局設立権を持つこと; ヨーロッパで戦争が勃発する場合、中共が10万の援軍と200万の労働者でソ連を支援すること;このほか中共は遼寧、安東省特別区を適当な時期に朝鮮に併合させることを承認した。

三、党の邪悪遺伝子の表れ

(一)党史の特徴――永久不変の恐怖感

      永久不変の恐怖感は中国共産党の最大の特徴であり、生存を維持することは共産党にとって誕生してからずっと伴う最高の利益である。この生き延びるという最高の利益は、変わり続ける外観の下に隠された恐怖に打ち勝った。それは癌細胞のように広がり、身体の各部位に浸透し、他の正常な細胞を殺し、悪性細胞を勝手に増長させた。歴史の循環する過程において社会はこの共産党と言う変異物質を片付けられずに、その拡散に任せた。各層各範囲は皆この強力な変異因子を消す術をもたず、多くの社会が汚染され、更に広範囲に共産主義、共産主義因子が氾濫していった。これらは又、共産党によって強められ、利用され続けたため、道徳と社会は根本から変異してしまった。

      共産党は人々が是認している道徳と正義の原則は口にしない。共産党の全ての原則は絶対的なその集団のへの利益奉仕であり、絶対的な利己を最高原則とし、この集団の欲望を抑制するいかなる道徳も正義の原則もない。この自我の原則に基づいて、彼は絶えずさまざまな外皮を被り続ける必要があった。危機連鎖が続いている早い時期、中共は、ソ連共産党に取り付き、国民党に取り付き、国民政府役人に取り付き、国民革命に取り付いていた;政権を手に入れた後、中共は様々な機会主義に取り付き、民意民情に取り付き、社会機構や手段に取り付き、全てのものに取り付き、危機のたびに党勢拡大の機会として強引な手段をエスカレートさせていった。

(二)この一貫した邪悪が党勢拡大の“法宝”である

      共産党は革命での勝利は三大“法宝”(党の建設、武装闘争、統一戦線)によるものと称した。国民党は自らの教訓に基いて共産党のそれに“宣伝とスパイの利用”という二つを付け加えた。共産党は各“法宝”と「邪、騙、煽、闘、奪、痞、間、滅、控(コントロール)」を貫いた。

      マルクス、レーニン主義は本質からしてすでに邪であった。滑稽なことに中共党員は皆マルクス、レーニン主義を理解していない。林彪は曾って、共産党員でマルクスの本をまともに読んだ人は何人もいないと話していた。 瞿秋白は、誰もが知っている思想家であるが、彼はマルクスの本の上っ面をわずかに読んだだけと告白している。毛澤東の思想は農民一揆という山奥のマルクス、レーニン主義であった。ケ小平の社会主義初級段階理論は資本主義に基づくものだった。江澤民の三つの代表は更にどれもわけのわからないものの寄せ集めだった。中共はマルクス,レーニン主義を理解しておらず、ただその中から邪を継承しただけで、その邪悪な基礎のうえに自分達独自の更なる邪悪を詰め込んだ。

      特に話す価値のあるものは、中共の統戦工作であり、それは嘘と短期の買収を併用したものだった。「統」は戦うためであり、共産党を孤立から抜けださせ、人を集め、大きな勢力へと変え、双方の力関係を変化させるものだ。 「統」があれば「分」もまた有り、敵、我、友、左、中、右などに分け、どれを仲間にし、どれを攻撃対象にするか、また何時仲間にし、何時攻撃対象にするか等。前段階は敵を友とし、時が過ぎれば友を敵とした。例えて言うならば“民主革命の時期に団結した資産階級は社会主義革命の時期には抹殺された。又、民主党派指導者章伯鈞、羅隆基などは政権奪取を目指す時期の中共にとって必要であったので仲間とし、政権奪取後は右派として叩かれたのである。

(三)党は熟達したごろつきである

      党は硬軟両面の功夫(技)を持ち、軟功は宣伝、統戦、離間、スパイ、反逆への扇動、表と裏、精神破滅、洗脳、欺瞞宣伝、真相隠し、心理戦、テロの雰囲気、恐怖症、健忘症を作る、などで、これらは人間性を破壊し、悪を助長する。硬功は、暴力、武装闘争、鎮圧、政治運動、殺して口を塞ぐ、拉致、口を塞ぐ、武闘、定期的な攻撃等等、これらが党の作り出したテロの担保となるのである。

      党はいつも硬功と軟功の二つをあわせて使い、あるときは緩め、あるときは絞め、外にはゆるく見せて内側は締め、緩めては締め、蛇を穴からおびき出す。中共は民主で国民党を責めたが、中共の統治区内にいた知識分子王実味は党と少し違う意見を口にしたため、典型的な拷問を受け、最後に斧で頭を割られて死亡した。これが有名な「野百合事件」である。延安整風運動に参加し、苛められたある古い幹部が、当時をこう回想していた、極度の圧力の下で、自白を強要されて、自分の良心を売らざるを得なくなり、でたらめな事を話してしまった。始めてこの様な状況に遭い、連行された同志に申し訳なく死んでしまいたいと思っていた。丁度よく机の上には一丁の銃がおいてあった。手にとって自分の頭に向けて引き金を引いた――弾が入っていない!この時、かれの尋問を受け持った幹部が部屋に入ってきて、“過ちを改める事は良い事だ、党の政策は寛大だ”といった。この様に党は試練を通じてあなたの極限を知り、更にあなたが党に忠を尽くすと確信し、そこで審査をパスするのだ。党はこのように相手を死地に置き、苦痛と屈辱を与え、其の痛みに耐えかねて死んだほうがましだと思ったときに一筋の生きられる道を与え、あなたが感謝する救命恩人となるのである。数年後、この幹部は香港で法輪功を知り、とても良いと感じた。しかし法輪功への弾圧が始まると、以前自分の記憶がすべてよみがえり、再び法輪功は良いという勇気は無くなった。

      よく似た例として、最後の皇帝溥儀が監獄の中で、他の人が殺される所を見させられ続け、これにより自分も処刑されると思い、生存本能により自ら協力し、自己洗脳して最後には「我が前半生」と言う本を書いたというものがあり、共産党が行った思想改造の典型的な功事例である。

      現代の医学研究によれば恐怖とプレッシャーの中で隔離された環境下、多くの被害者は加害者に対し、ある種の歪んだ依存を作り出し、その喜怒哀楽によって自分の感情をかえていく。加害者である人間が何か少し恩恵を与えると彼は涙を流すほど感激し、更には“愛情”まで生まれてくる。この種の心理学現象は昔から中共が行っていた、敵、更に人民の精神制御と思想改造の中において運用され、成功を収めた。

(四)党は最も邪悪な存在

      中共の党総書記の大多数はかつて反党分子として叩かれたことがある。明らかに、この党は自分の生命を持っており、生きた独立な生命体である。党の指導者が必ずしも党の運命を方向付けるのではなく、党がその指導者の運命を決めるのだ。江西ボルシェビキ区は国民政府軍に包囲されていて生存さえ危ぶまれたにも関わらず、党はお構いなく、AB団という名目で、夜中に仲間を引きずり出して銃殺し、或いは弾を節約する為石で叩き殺した。日本人と国民党の狭間で生存していた人たちが、内部粛清のための延安整風運動が行われ、数え切れないほどの人々が殺された。この様に大規模な内部での大量虐殺を繰り返したにも関わらず、最終的に中国大陸を統治するまでの勢力拡大には影響せず、残酷な殺し合い模式を当時のちっぽけなボルシェビキ区から全国に広めていった。まるで悪性腫瘍のように成長していくうちに核は死滅したが、周りはまだ健康な組織を呑み込みながら拡大していった。腫瘍に飲み込まれた組織は新しい腫瘍になってしまった。善人でも悪人でも一度中共に入ってしまえば破壊エネルギーの一部になり、正直で真面目な程破壊性も大きくなってしまう。この組織が徹底的に破壊される時、疑いなく同時に腫瘍自身の死ぬ時でもあるが、これは腫瘍の生き方である。

      中国共産党公認の創立者陳独秀は五.四運動の文化人で、彼は暴力を好まず、共産党の人間に対し、もし国民党内で共産党の政党意識を強化し、指導権に対して強い関心が集まれば、必ず革命の内部で緊張を引き起こすだろうと言い戒めた。五四一代でもっとも激しい人物に心に寛容の精神があったが、彼は “右傾機会主義”というレッテルの下で叩かれた最初の人物である。

      もう一人の指導者である瞿秋白は、共産党が自ら戦闘へ行き、暴動を組織し参加し、やみくもにに殺し、壊せる全ての政権を壊すという極度の無法を用いて、中国の社会秩序を回復すべきだと認識していた。しかし彼は死ぬ直前に“私は決して烈士に成りすまして死のうとは思わなかった、自分はあなた達からの隊列から長い間離れていた。私のような文人が革命的な政治舞台で活躍する事は、歴史の誤解である。私は最後まで紳士意識を克服できなかった、結局無産階級戦士には成れなかった”と告白した。

      党の指導者である王明はコミンテルンの命令に従い、連合抗日を主張し、共産党の占領地拡大に反対した。党の会議で毛澤東と張聞天は同志たちを説得することができなかった。彼らの苦悩は事実を言えなかったことである。当時の紅軍の実力では日本の一個師団とさえ戦えない程度であり、もし衝動的に攻撃したら、中国の歴史が今と全く違ったものになっていただろう。“身を捨てて義を取る”という伝統文化の中で育った当時の文人達の中で毛澤東は沈黙し続けるしかなかった。王明も後に先に左傾機会主義者、後に右傾機会主義者とされた。

      胡耀邦は歴代政治運動の中の冤罪を晴らし、共産党に支持を回復させたが、党内では叩かれた。趙紫陽は共産党を救うため改革を行ったが失脚した。共産党の新政権で何ができるというのか?本当に共産党を改革しようとすれば、共産党は滅びる、共産党からもらった権力が直ちに合法性を失う。中共メンバーが中共システムを変えるためにできることには限界がある。それゆえ共産党改革など成功できるはずがない。

      党の指導者は悪人ばかりで、どうして革命の拡大と前進があるのか?最も邪悪な時期に直面した最高指導者は次々と敗れていった。なぜなら彼らの邪悪が基準に達していなかったからである。最も邪悪のものだけが党の需要に応えられる。党の指導者達は皆悲劇の末路を辿ったが、党は頑として生き続けている。残された指導者達は党をコントロールする人でなく、党の邪悪に従い、党にエネルギーを増幅させ、危機から救い上げる事が出来る人たちである。だから共産党員は、天と戦い、地と戦い、人と戦うが党とは戦えない。党の道具に成り果てており、最高の境地は相互に利用しあうことだけなのだ。

      ごろつきは既に党の一大奇観となっている。党の間違いは張国Z, 「四人組」にある。「毛澤東の3:7」、「ケ小平の4:6」と言う説があっても、党は間違いなどなかった。党に間違いがあれば、党自身で間違いを修正できるから、“未来を見よう”“歴史の古い柵を糺そうとするな”。共産主義の人間天国から社会主義の飽食に落ちたとしても、マルクス、レーニン主義が“三つの代表”にやられてもかまわない、自身を罵ってもかまわない。其の統治維持の為ならば、共産党が民主主義を行い、宗教自由を開放し、一夜にして江澤民を放り出して、法輪功を認め直しても驚くことはない。なぜなら、党の集団目標、集団の生存、集団の権力という宗旨は変わらず、共産党の権力と統治を変わらず維持することは不変であるからだ。

      共産党は暴力による恐怖と高圧を党の理論綱領、党性とし、党の最高原則として、指導者の霊魂と化し、党の運営機制、党員行動の規則とした。党は鋼のようなものであり、鉄の紀律を作り上げ、全党員の行動を統一させた。

      結び

      歴史のどんな力が共産党を選択したのか?なぜ共産党を選択しなければならなかったのか?皆すでに知っているように世界には二種類の勢力が存在する、一つは古く邪悪な勢力で、悪を行い、マイナスの選択をする。もう一つは正しく良い勢力で、善を行い、プラスの選択をする。共産党は旧勢力の選択である。何故共産党は選択されたのかといえば、共産党は今までの古今東西の邪悪の集大成であり、邪悪の代表だからだ。人々の善良さに付け入って一歩一歩今日の所まで来た。

      共産党の宣伝“共産党がなければ新中国が無い”の意味はなんだろうか? 1921年党の設立から1949年政権を手に入れるまでの歴史をみても、共産党の狡猾と血なまぐささがなければ其の政権奪取はなかったことが証明される。歴史上にある全ての団体と違って、共産党はマルクス、レーニンの理論を盾にし,勝手気ままに変え全ての勝手な行動を正当化し、一部群集を巧妙に取り込み、強引な解釈を押し付け、毎日絶えず宣伝し続けた、また党が永遠に誤らないことを証明するため、中共の政策と策略もこの理論に乗って実施した。

      中共形成の歴史は邪悪大集合の過程であり、輝かしい事は一つもない。その歴史こそ共産党の非合法性を実証している。中国の国民が共産党を選択したのではなく、共産党が国民に無理矢理に押し付けたのである。邪悪の遺伝子「邪、騙、煽、闘、奪、痞、間、滅、控(コントロール)」により、外来の邪霊を中国人民に押し付けたのである。